池田敏雄 いけだ・としお/1923.8.7~1974.11.14

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出身地:東京・両国

1943年東京工業大学に進んだが、1944年4月勤労動員に駆り出され、大宮造兵廠で兵器の生産に従事した。1946年9月大学を卒業し、同年12月富士通信機製造に入社した。配属されたのは技術部交換機課だったが、年明けすぐに機構研究室に配属換えになった。

 池田は日本電信電話公社が推進した「DIPS(Dendenkosha Information Processing System)」のOS開発に参加し、山本卓眞、生田滋、山田博、黒崎房之助、二宮昭一、野沢興一、平栗俊男などをよくリードした。これが同社のメインフレーム事業の中核「Mシリーズ」に結実した。また国産初のスーパーコンピュータ「FACOM230―75アレイ・プロセッサー・ユニット(APU:Array Processing Unit)」も開発している。岡県沼津市にある「池田記念室」には、リレー式電気計算機「FACOM128B」が動態保存されている。

 

【エピソード】両国の軟膏屋に生まれた。小学校時代から算数、数学に熱中した。雑誌の懸賞問題で何度も賞金をもらったことがあった。旧制浦和高校のとき、背丈が180㎝もあった。バスケットボール部に所属し、1試合65点の個人記録を持っていた。

池田敏雄 - Wikipedia

池田 敏雄-コンピュータ博物館

ASCII.jp:国産コンピュータを世界にアピールした池田敏雄という人物 (1/3)