井澤秀雄 いざわ・ひでお

東芝電子計算機事業の初期における事務方を担当し、のち営業に転じた。特に東大のTAC(Todai Automatic Computer)プロジェクトでは、東大、文部省、東芝の3者間で調整役を果たした。また文部省との予算折衝などにしばしば立ち会った。

1964年に電子計算機事業部が発足すると同時に営業課長、1970年中部支社長を経て1979年定年で退職した。

 

【エピソード】TACプロジェクトでは、ハードウェアはマツダ研究所(東芝)、ソフトウェアは東大という役割分担が決まっていた。研究開発に取りかかろうとしたとき、契約上の問題が生じた。東京芝浦電気の社内規定では、マツダ研究所はあくまでも社内における技術開発部門であって、外部からモノ作りを受注できない。

研究所はすでに山下研究室の要請でパルス測定装置やオシロスコープの改良などを行っていたし、長寿命真空管の開発に独自の予算が投入されていた。だが文部省、つまり国家プロジェクトの予算を受けるとなると話が違ってくる。正式な契約を結ぶにはしかるべき事業部を受注窓口にしなければならなかった。

以下の事情を井澤秀雄は『TOSBAC余話』第一集で次のように語っている。(原文ママ

 昭和二十六年七月の某日の朝と記憶しています。当時私は通信機販売部特器課に所属していて、心電計、脳波計等の医用電子機器の販売を担当していましたが、課長の平林さんから呼ばれて、今日から担当が変わって、「マツダ研究所(今の東芝総研)と東大工学部との間で現在すすめられているTAC研究開発費の第一期分(昭和二十六年度分約七百万円)の契約を担当して貰いたい」との伝達を受けました。

 (中略)

 私は命令されるとすぐに、マツダ研究所の三田部長にお会いし、今までの研究経過ならびにTACの実験機なるものを見せて貰ったのであります。それは高さ百八十㎝、幅約八十㎝の裸架に、ブラウン管、MT真空管、その他の電気部品がギッシリと、しかも雑然と取りつけられ、その部品を色々の色で被覆した電線で結びつけられたものでありました。

 「こんなもので東大の検収を受け、七百万円もの大金をいただけるのか」と井澤は内心で驚いた。それというのは、当時の電子機械装置の配線は縦横九十度に整然と、しかもカッチリ固定するのがいい仕事だと考えられていたためだった。ごちゃごちゃに配線された実験機の中を見て井澤が驚いたのは無理もなかった。

 「なぁに、アメリカさんはみんなこんな調子さ」

 驚く井澤に三田が言った。ともあれ、伊澤が事務手続きを処理してTACプロジェク トは東京芝浦電気の正式な研究開発事業になった。