下條によると、 ――清成は観察者、中村は発見者、飯沼は預言者の役割を担った。 という。 日本ベンチャービジネス協会が発足して2年が経った1973年ごろのこと、会員企業の中から ――会員で基金を集め、銀行から融資を受ける際の信用保証制度を作ってはど…
日本EDP、構造計画研究所、コンピュータプリケーションズ、日本ソフトウェアの4社でソフト業団体結成の構想が練られていたときから業界団体の必要性を感じ、日本コンピュータ・システムの舟渡善作を説き、日本タイムシェアの伊藤正之と会い、ソフトウェ…
東京の恵比寿のマンションで、下條武男と小黒節子の2人でスタートした日本コンピュータ・ダイナミクスは1974年の現在、どうしていただろうか。 徹夜して作った見積書が ――安すぎる。 という理由で突き返されたアラビア石油の一件から5年、このとき従業…
この大仕事が終わったあと、小黒は東京・渋谷の喫茶店「ルノアール」で下條に、「独立しましょうよ」と提案した。彼女がそういったのは、日本能率協会の内部事情に原因があった。 EDP研究所の創始者であり、下條たちのいちばんの理解者であった新居崎邦宜…
下條・小黒のコンビが八面六臂で活躍し、日本能率協会の名を高からしめたのは、これより少しあと、1966年1月に引き受けた国税庁の法人税システムである。折から新居崎理事が癌で亡くなり、協会の中でソフトやシステムへの関心が薄れていたときでもあっ…
日本能率協会の職員だった下條武男が、日本人として初の女性のシステム・エンジニアを育てたことはあまり知られていない。下條はそのことを語らないし、当人もそのことを自慢しないためだ。 小黒節子は下條の6歳年少である。 “お嬢さん学校”として知られた…
日本能率協会時代の下條が作ったプログラムで最も評価が高いのは、「バイナリー・サーチ」であろう。もっともこの名称は、のちにアメリカのソフトウェア工学学会が名付けたもので、開発した当時、下條は「区間短縮法」とか「二分サーチ法」と呼んでいた。 下…
ここに新居崎邦宜という常務理事がいた。 「たいへんな勉強家で、海外からいろいろな雑誌や文献を取り寄せて、これからの企業の経営のあり方を自ら研究していました。それに先見性があった」 と下條はいう。 先見性とは、すなわちコンピューターであった。 …
「試験を受けたのは吉澤会計機、入社したのは日本レミントン・ユニバックだった」 と話すのは下條武男である。佐藤雄二朗(日本ユニバックから独立しアルゴ21を創業、情報サービス産業協会会長となった)と同期だが、一方は東京出身で営業部に配属、下條は…
下條武男氏 1931年(昭和 6年) 8月 大阪市生まれ 1958年(昭和33年) 3月 大阪大学理学部数学科卒 4月 日本レミントン・ユニバック入社 1961年(昭和36年)11月 社団法人日本能率協会に移籍 1967年(昭和42年) 3月 日本コン…
病気療養中のところ、2020年4月27日、容体が急変し、28日死去した。 享年67。 写真は2019年5月25日に開催された「ソフトウェア・メインテナンス研究会フォーラム2019」で(筆者写す) 増 井 和 也 氏 1952年7月2日生まれ、京都…
大塚 実 氏(「風雪を超えて 大塚実のあゆみ」から) 1922年(大正11年)10月9日 栃木県益子 生まれ 1947年(昭和22年) 株式会社理研光学(現:株式会社リコー)入社 1951年(昭和26年) 株式会社理研紙工業 設立入社 1953年(昭和28年) 株式会社ルミナ閃…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47166920Q9A710C1FF8000/?fbclid=IwAR0m5DPKujP0btDyF7i-gyWR24DOg2CyybP9LeHax9pFVBYMhh-hoIfBKkM 【ワシントン=芦塚智子】1990年代に米大統領選の独立系候補として2回出馬した著名実業家ロス・ペロー氏が9日、死去し…
バロース William Burroughs/1857~1898。 印刷機能を備えた最初の計算機を開発し、バロース社を設立した。ホレリス式、パワーズ式のパンチカード式計算機械装置と比べ低価格だったため、金融機関の支店などが購入した。37歳の若さで没していなければ、計算…
元伊藤忠商事常務、元CRCソリューションズ〈のち伊藤忠テクノソリューションズ〉社長)。 岡山市出身。 新聞の訃報は「葬儀は近親者で済ませた」と簡素なものだった。伊藤忠商事から、全く畑違いのCRCソリューションズに社長として移籍した直後、筆者がイン…