2020-07-05から1日間の記事一覧

下條武男伝(9) 『日本IT書紀』第五分冊嚇躍篇 巻之廿九《仙蹕》「展開」から

下條によると、 ――清成は観察者、中村は発見者、飯沼は預言者の役割を担った。 という。 日本ベンチャービジネス協会が発足して2年が経った1973年ごろのこと、会員企業の中から ――会員で基金を集め、銀行から融資を受ける際の信用保証制度を作ってはど…

下條武男伝(8) 『日本IT書紀』第五分冊嚇躍篇 巻之廿九《仙蹕》「展開」から

日本EDP、構造計画研究所、コンピュータプリケーションズ、日本ソフトウェアの4社でソフト業団体結成の構想が練られていたときから業界団体の必要性を感じ、日本コンピュータ・システムの舟渡善作を説き、日本タイムシェアの伊藤正之と会い、ソフトウェ…

下條武男伝(7) 『日本IT書紀』第五分冊迅風篇 巻之廿七《連屬》「展開」から

東京の恵比寿のマンションで、下條武男と小黒節子の2人でスタートした日本コンピュータ・ダイナミクスは1974年の現在、どうしていただろうか。 徹夜して作った見積書が ――安すぎる。 という理由で突き返されたアラビア石油の一件から5年、このとき従業…

下條武男伝(6) 『日本IT書紀』第三分冊彩明篇 巻之十六《浮寳》「初の女性SE」から

この大仕事が終わったあと、小黒は東京・渋谷の喫茶店「ルノアール」で下條に、「独立しましょうよ」と提案した。彼女がそういったのは、日本能率協会の内部事情に原因があった。 EDP研究所の創始者であり、下條たちのいちばんの理解者であった新居崎邦宜…

下條武男伝(5) 『日本IT書紀』第三分冊彩明篇 巻之十六《浮寳》「初の女性SE」から

下條・小黒のコンビが八面六臂で活躍し、日本能率協会の名を高からしめたのは、これより少しあと、1966年1月に引き受けた国税庁の法人税システムである。折から新居崎理事が癌で亡くなり、協会の中でソフトやシステムへの関心が薄れていたときでもあっ…

下條武男伝(4) 『日本IT書紀』第三分冊彩明篇 巻之十六《浮寳》「初の女性SE」から

日本能率協会の職員だった下條武男が、日本人として初の女性のシステム・エンジニアを育てたことはあまり知られていない。下條はそのことを語らないし、当人もそのことを自慢しないためだ。 小黒節子は下條の6歳年少である。 “お嬢さん学校”として知られた…

下條武男伝(3) 『日本IT書紀』第三分冊揺籃篇 巻之十五《氣噴》「日本能率協会」から

日本能率協会時代の下條が作ったプログラムで最も評価が高いのは、「バイナリー・サーチ」であろう。もっともこの名称は、のちにアメリカのソフトウェア工学学会が名付けたもので、開発した当時、下條は「区間短縮法」とか「二分サーチ法」と呼んでいた。 下…

下條武男伝(2) 『日本IT書紀』第三分冊揺籃篇 巻之十五《氣噴》「日本能率協会」から

ここに新居崎邦宜という常務理事がいた。 「たいへんな勉強家で、海外からいろいろな雑誌や文献を取り寄せて、これからの企業の経営のあり方を自ら研究していました。それに先見性があった」 と下條はいう。 先見性とは、すなわちコンピューターであった。 …

下條武男伝(1) 『日本IT書紀』第三分冊揺籃篇 巻之十五《氣噴》「日本能率協会」から

「試験を受けたのは吉澤会計機、入社したのは日本レミントン・ユニバックだった」 と話すのは下條武男である。佐藤雄二朗(日本ユニバックから独立しアルゴ21を創業、情報サービス産業協会会長となった)と同期だが、一方は東京出身で営業部に配属、下條は…

下條武男(しもじょう・たけお)氏 1931.8.〜2020.6.25 日本コンピュータ・ダイナミクス創業者

下條武男氏 1931年(昭和 6年) 8月 大阪市生まれ 1958年(昭和33年) 3月 大阪大学理学部数学科卒 4月 日本レミントン・ユニバック入社 1961年(昭和36年)11月 社団法人日本能率協会に移籍 1967年(昭和42年) 3月 日本コン…