相澤 進 あいざわ・すすむ/1934〜

エプソン半導体事業、プリンター事業の基礎を作った。

1956年に東京大学の工学部を卒業した。専攻は精密工学だった。

東洋工業(現在のマツダ)に就職することが決まっていたが、担当教授の強い勧めで諏訪精工舎に入った。腕時計にクォーツを応用するため半導体技術の研究開発に取り組み、のちのエプソンの基礎を作った。のち同社専務となった。

【エピソード】諏訪工場の研究開発チームがクォーツ時計の誤差ゼロ秒への技術開発に取り組んでいた1959年のこと、アメリカのブローバという時計メーカーが音叉時計を発売した。「アキュトロン」「マーベル」がそれで、誤差は月に60秒だった。相澤はただちに音叉時計の調査を始め、同期入社の山村勝美(のちセイコーエプソン副社長、セイコー会長)らとともに社内にできた「59A」という勉強会に参加した。会の名前は1959年の下2桁を取った。

社内に水晶発振(クォーツ)の技術があったが、それを腕時計に応用するには水晶の微細加工技術と電気信号変換装置の微細化に半導体回路の開発が必要だった。相澤は59Aプロジェクトのリーダーで技術課長だった中村恒也(のちセイコーエプソン社長、相談役)から、東大の研究室に戻ってトランジスターを学ぶ許可を得た。給料を貰いながら大学に通い、土曜と日曜、大学の長期休暇にはディーゼル機関車が牽引する列車で諏訪に帰り、工場に勤務した。