安藤 馨 あんどう・かおる/1914.5.11~1997

出身地:東京都

アメリカのインディアナ州立大学ビジネススクールに留学して計量経済学を学んだ。留学中に参加した学会で、カウルス経済研究所が保有するパンチカードシステム「IBM405」が展示されているのを見た。1937年に帰国し日本ワットソン統計会計機械に入り、営業部門の責任者となった。1941年12月スパイ容疑で逮捕されたが叔父で法相の岩村通世の助力で釈放され、神戸に赴いて北川宗助らと統計研究所を設立した。

1945年9月、日本の敗戦と同時に連合軍総司令部GHQ)の戦略爆撃調査団に所属してパンチカードシステムによる各種統計を作成した。この人によって多くの日本人がGHQや在日アメリカ軍基地の情 報処理部門に採用されている。のち日本IBMに入り、1960年代には東京オリンピックのオンライン・システム開発チームを統括しプログラマーの養成などに努めた。

1966年富士通に取締役として迎えられたがIBM流に対する反発もあって電子計算機の営業部門でなく子会社の富士通ファコム社長として情報処理サービス分野に軸足を移した。1967年富士通ファコムの再編に伴い教育部門が富士通電子計算機専門学校として独立すると校長、1970年富士通常務となり、1983年日本人で初めての情報処理国際連合会長となり1992年富士通を退職した。

安藤 馨-コンピュータ博物館

 

〔関連〕北川宗助