ジーン・アムダール Gene Amdahl/1922.11.16〜2015.11.10

アメリカのコンピュータ・アーキテクト。

サウスダコタ州のフランドローに生まれ、1948年サウスダコタ大学の大学院で理論物理学を学んでいたとき、研究用の計算機を作ることを思いついた。1952年電子計算機の設計に関する論文で理論物理の博士号を取得し、IBM社に入った。

 当時、コンピュータ・メーカーはフォン・ノイマンの理論をどのように具現するか、手探りの状態で、様々な技術を統合し体系化するプランナーが必要だった。彼は世界で最初の「コンピュータ・アーキテクト」になった。「IBM704」のチーフプランナーとして活躍したが、次期モデルの設計をめぐってワトソン・ジュニアと意見が合わず1955年に退職、1960年に請われて復帰した。IBM社は次期大型計算機の設計で悩んでいた。

 ただちに基本設計に取りかかったアムダールは、単一のOSで下位モデルから最上位モデルまで一貫し、同じアプリケーションプログラムが動作するシリーズ・アーキテクチャを確立した。これが「システム/360」のベースとなった。1970年当時、役員に準じる「フェロー」の地位にあったが、次期新機種についてIBM本社と方針が合わず、1970年秋IBM社を退社しアムダール社を設立、同時に富士通と提携してIBM互換機事業をスタートさせた。

 当初富士通は「FACOM230シリーズ」の後継機種にアムダールの技術を導入する考えだったが、並行して取り組んでいた日立製作所との共同開発プロジェクトとの関係および、アムダール社の開発の遅れやアーキテクチャに関してアムダールと池田敏雄が対立したこともあって関係が冷え、1979年アムダールは保有していたアムダール株の大半を富士通に売却して経営から手を引いた。直後にトリロジーという会社を興してIBM互換機事業を続け、1994年コマーシャル・データ・サーバー(CDS)社を設立した。

 

【エピソード】本来であれば、彼は「IBMシステム/370」のチーフプランナーになるべきだったし、その後継シリーズの設計も任されるはずだった。ところがIBM社は彼を疎んじるようになった。というのはアムダールが構想する次期マシンを実現するには多くの技術的障害を乗り越えなければならず、そのためには予想以上の投資が必要だったためである。ビジネスである以上、過度な投資はできない、とIBM社は考えた。

 アムダールは1969年の秋、「IBM社を辞めて、思い通りのコンピュータを作ってみたい」ということを、リットン・インダストリ社の知り合いに漏らした。リットン・インダストリ社は電子工業分野のヘッドハンティングや技術提携を斡旋することを業としていたので、アムダールはおそらく、自分の事業への出資者を求めたのであろう。その情報が、ロサンゼルスに駐在していた富士通の鵜飼直哉の耳に入った。鵜飼はこの情報を本社の尾見半左右に報らせ、まず尾見がロサンゼルスに飛んでアムダールと面会した。このときアムダールから「イケダと会いたい」という言葉が出た。