下條武男伝(2) 『日本IT書紀』第三分冊揺籃篇 巻之十五《氣噴》「日本能率協会」から

 ここに新居崎邦宜という常務理事がいた。

 「たいへんな勉強家で、海外からいろいろな雑誌や文献を取り寄せて、これからの企業の経営のあり方を自ら研究していました。それに先見性があった」

 と下條はいう。

 先見性とは、すなわちコンピューターであった。

 新居崎は、能率協会の講座を受講する経営コンサルタントの卵たちを前に、

 「これからは必ずコンピューターの時代がくる。コンピューターを知らなければ、コンサルタントは務まらんぞ」

 と力説し、理事会でも同じことを主張して、1961年(昭和36)、ついにスペリーランド社の最新鋭機「USSC」の導入を決定した。だけでなく新居崎は「EDP研究所」を発足させ、ここに20人ほどの経営コンサルタントのタマゴたちを集めて教育し始めた。第二次大戦の前、神戸商業大学教授の平井泰太郎が「統計計録研究所」を創設したのとよく似ている。

 下條はUSSCと一緒に、日本能率協会に常駐するサポート要員として派遣された。「コンピューターの専門家」は下條しかいなかった。このため、マシンの構造やプログラム作りの基礎などを受講生に教えることになった。

 これが「分かりやすい」と評判になった。

 日本能率協会での講座は3日間のコースだった。

 コンピューターとは何か、コンピューターの利用法といった初歩的な内容から、「USSC」の構造、プログラミング技法、プログラミング方式の仕組みなどが講義された。パンチカード・システムしか知らなかった多くの講習生にとって、下條の講座は新鮮に受け取られた。日本レミントン・ユニバックで英文マニュアルを学んだ経験が生きた。

 講習生の多くは使う立場の人だったため、ハードウェアにかかわる知識のほかに、アメリカにおけるコンピューター利用の動向に関する情報を要求する声が強まった。3日間の講座ではカバーし切れない。これが同協会主催のセミナーやシンポジウムのきっかけになった。

 シンポジウムには内外から専門家や学識経験者が招かれ、受講者は常に五百人を超えた。小野田セメントの南沢宣郎、東京火災海上の山口大二、野村証券の大野達男といった人々が、しばしば講演や討論会を行った。そうしたイベントの進行役を務めたのは下條だった。協会の職員や協会所属のコンサルタントでは、専門的な話に対応できなかったのである。

 経営コンサルタントたちに情報システムの基礎知識を教えるかたわら、大手企業のコンピューター導入に関する調査や指導を担当した。東洋ベアリング、日本電装、汽車製造、住友機械といった企業に対して、事務の機械化の相談に乗った。

 「自分は何でも知っている」

 という顔をして、仕事をしなければならない。企業側にしてみれば、能率協会で専門にコンピュータをやっている人が来てくれた、ということなのだ。

 当人はハラハラしながらであったにせよ、下條は一人前のシステム・コンサルタントとして仕事をこなしていた。下條はこの時期に、プログラマーとしての才能も発揮している。

 日本能率協会がUSSCを導入したのは、これからコンピューターを導入したいと考えている企業の担当者に、実際の業務をコンピューター化したらどれほどの生産性、効率性、省力化が実現するかを実証するのが目的だった。

 「テスト用に作ったプログラムは、クライアントの実務を反映したもので、そのまま本番で使うこともできた」

 という。

 ところが処理するデータは、テストということもあって実際よりはるかに少ない。長大なプログラムをパンチし、それをコンピューターに読み取らせる時間に対して、データ処理の時間が極端に短い。テストを見にきたクライアントを延々と待たせたあげく、あっという間に処理が終わってしまう。

 「そこで、プログラムを磁気テープに格納することを思いついたんです」

 当時、磁気テープはデータと処理結果を記録するもので、プログラムの格納には用いられていなかった。のちにこの方式は「プログラム・ライブラリー」として一般的になる。また、アプリケーション・プログラムと処理データを分け、相互に同期させながら一貫した処理を行っていく手法は、アメリカのスペリーランド社に紹介され、いずれUNIVAC機のOS「OS/11」の一部に組み込まれることになる。