下條武男伝(3) 『日本IT書紀』第三分冊揺籃篇 巻之十五《氣噴》「日本能率協会」から

 日本能率協会時代の下條が作ったプログラムで最も評価が高いのは、「バイナリー・サーチ」であろう。もっともこの名称は、のちにアメリカのソフトウェア工学学会が名付けたもので、開発した当時、下條は「区間短縮法」とか「二分サーチ法」と呼んでいた。

 下條が開発したのは、プログラムのかたちをした新しい処理方法だった。その意味では、「開発」というより「考案」という表現が正しい。

大量のデータの中から特定の必要なデータを探し出す、という作業を、人間はいとも簡単にやってのける。例えば辞書から特定の単語を探し出す場合、おおよその見当をつけて辞書を開き、ページを繰って探していく。日本語の辞書は50音順、英語の辞書はアルファベット順に並んでいるし、わたしたちは学校教育の場で辞書のルールを学んでいる。

 パッと開いたところが目的の言葉の前か後かを見る。そこで不要な部分を捨てる。本の場合なら、ページを繰るということをしない。残った部分をまた大雑把に見当をつけて開く。その前か後か、さらに前か後か。そうすることで、よほど辞書を引くのが下手な人でも3回か4回で目的の言葉を見つけることができる。

 ところがコンピューターに格納されているデータには、基本的にそのような並び順もなければルールもない。少なくとも1950年代から1960年代のコンピューターはそうだった。格納されているデータを一つ一つチェックして行く。格納されているデータの件数分だけ、コンピューターは動き続ける。これでは必要なデータを探し出すだけで時間がかかってしまう。

そこで下條は、人間の「見当をつける」という行為を観察し、そのプロセスを分析して、コンピューターにも同じことを実行させる方法を考案したのだった。

データ(もしくはファイル)にキーとなるコードを付け、コード順にソートしておく。探したいデータのキー・コードを入力し、データ群の真ん中のキー・コードと照合する。キー・コードの大小で、データ群の前半分か後ろ半分かを判断し、さらに二分されたデータ群のそれぞれの真ん中にあるキー・コードと照合する。合致するまで二分・照合を繰り返す。

 「半日以上かかったデータ検索の作業が15分で終わった」

 という記録が残されている。

 日本能率協会で部長を務めていた中嶋朋夫(のち情報処理振興事業協会に移り開発振興部長、青山学院大学講師)や、情報システム・コンサルタントとして自立していた吉原賢治(のち日本システミックス株式会社社長)などが、アメリカの学会誌に発表するよう勧めたが、下條は面倒だったのか、論文を書かなかった。

 1964年の秋、全米コンピューター管理学会(ACM)でこれと全く同じ手法が「バイナリー・サーチ理論」として発表され、データベース管理システム(DBMS)の基礎理論となった。それを知った中嶋朋夫は下條の論文嫌いに腹を立てる一方、おおらかな人柄に苦笑したと伝えられる。

 同協会のEDP研究所には、常時、20人前後の講習生がいた。彼らは下條の講義を聴き、プログラミングとシステム設計の実践指導を受け、あるいは企業経営にコンピューターを活用するための視点を学んだ。GHQに「北川学校」があったように、日本能率協会には「下條教室」があった。

 実をいうと、日本能率協会の常務理事・新居崎邦宜、EDP研究所長・中嶋朋夫、日本システミックス社長・吉原賢治、マネジメント・サイエンス研究所長・城功、富士ゼロックスのインフォメーション・システム部長・三宅通夫などは、コンピューターとプログラム――つまり情報システム――のあり方について、下條の講座から多くを学んだ。人の輪が、こうして形成されていく。

 のちに「情報システム・コンサルタントの大家」といわれるようになる吉原は、

 「下條さんが何か奇跡を作る魔術師のように見えて、畏敬の念さえおぼえた」

と語っている。

 そして下條を人に紹介するとき、下条が照れるのにも構わず、必ず

 「この人がわたしのコンピューターの先生でしてね。コンピューターとソフトウェアの本質を教わったんですよ」

 といった。

 インテック社長の金岡幸二も、「下條教室の弟子」を自称した一人だった。

 金岡幸二が1945年8月、満州奉天日本陸軍航空部隊に飛行学生として配属されていたことはすでに書いた。そのとき同僚だった山本卓眞は戦後、富士通信機製造に入り通信機器部門に属しながら池田敏雄の下でコンピューターの開発に没頭していた。

 復員後、金岡は東大に入り直し、1959年に工学部を卒業して東光電気に入社したが、戦友の活躍にひそかに刺激されていた。また実兄が工業技術院に勤めていた関係もあって、コンピューターに興味を持った。父親が富山の出身だったことが縁で1963年、富山商工会議所の支援を得て計算センターを設立する話がまとまった。翌年1月に設立された「株式会社富山計算センター」がそれである。

 富山計算センターは当初、UNIVAC120を使っていたが、1965年に最新鋭のUSSCにレベルアップした。ところがPCSの技術と運用方法ではうまく行かなかった。金岡はそこで、下條にコンサルティングを依頼したのだった。

 後年、金岡は、

 「エクスターナル・プログラミングとカードの運用から、インターナル・プログラミングと磁気テープの運用へ、という転換が円滑に行われたのは、ひとえに下條さんの力によっている」

 と述懐している。