下條武男伝(5) 『日本IT書紀』第三分冊彩明篇 巻之十六《浮寳》「初の女性SE」から

 下條・小黒のコンビが八面六臂で活躍し、日本能率協会の名を高からしめたのは、これより少しあと、1966年1月に引き受けた国税庁法人税システムである。折から新居崎理事が癌で亡くなり、協会の中でソフトやシステムへの関心が薄れていたときでもあった。

 本来であれば国税庁システム開発日本能率協会に舞い込んでくるはずがなかった。

 小黒の述懐によると、

 「官庁の機械(コンピュータ)は国産の機種と当時は限られていた。それがN社製の機種と決まっていた。それにともなって、ソフトウェアづくりもN社の方ですでに着手していました」

 とある。相手方に配慮して小黒は「N社」と表現している。

 国税庁は戦後間もなく、IBM社のパンチカード・システムで集計業務を処理していたが、1965年に初めて本格的なコンピュータ利用に踏み切ることを決めていた。

 1965年の夏から、「N社」は大学卒の英俊十数人を集め、総力をあげてシステム開発に取り組んでいたが、年が明けても完成に見通しが立たなかった。計画では2月末にテストを完了させ、3月末のオープン初日には大蔵大臣がテープカットを行う予定まで組まれていた。

 何が何でも完成させなければならない。

 残された時間は1か月半しかなかった。

 この段階で相談を受けた能率協会の責任者が下條だった。

 「一緒についてこい」

 と下條にいわれて同行した小黒は、先方の会議室の外で待たされた。待っている間、「N社」の技術者から、

 「自分たちがこれだけ時間をかけてもできないのに、たった2人で仕上げられるわけがない」

 と言われたが、彼女は黙っていた。

 彼らは図に乗って、

 「十何人もプロの技術者が取り組んだ後にノコノコ入ってきて、できなかったらどうする」

 など、嫌味とも問責とも取れる言い方をした。

 このとき小黒は一言、

 「下條が引き受ける以上、できると思う」

 と返事をしている。

 この答を受けた「N社」の技術者は、「生意気な女だ」と思ったに違いない。だが、小黒には自信があった。

 「N社」との打ち合わせを終えると下條は能率協会近くの旅館に部屋を2つ確保し、そこに国税庁の担当官を招いた。担当官から業務内容を聞いた下條がフローチャートとロジックを書き、隣の部屋に待機した小黒がプログラムに置き換えていく。コーディング用紙を能率協会のパンチャーがカードに穿孔し、その場で磁気テープに落としていく。テープに落ちたプログラムは即座にテストにかけられ、デバッグが行われる。

 「下條と国税庁の役人がやりとりしている間、私は隣の部屋で眠る。私がコーディングしている間は、入れ代わりに下條が隣の部屋で休む。そんな毎日をほぼ1か月間くり返したわけです。私の母が洗濯物を届けがてら、私どもの様子をさぐりに来たものです」

 20代の娘がひと月も家に帰らず、渋谷の旅館でカン詰めになっている。母親として心配でならなかったのも無理はない。

 プログラムは作るそばからデバッグにかけられたが、ほとんどが「一発でOKだった」という。すべてのプログラムが完成したのは、オープニング式典当日の明け方だったというから、神業に近い。

 「式典にはわれわれも出席せよ、というので、午前5時ごろ自宅へ帰って、服を着替えて出直したものです」

 一緒にカン詰めになった国税庁の担当官がいたということも、現今の役人気質からは想像できない。

 何とも滅茶苦茶な話ではあった。