下條武男伝(6) 『日本IT書紀』第三分冊彩明篇 巻之十六《浮寳》「初の女性SE」から

 この大仕事が終わったあと、小黒は東京・渋谷の喫茶店ルノアール」で下條に、「独立しましょうよ」と提案した。彼女がそういったのは、日本能率協会の内部事情に原因があった。

 EDP研究所の創始者であり、下條たちのいちばんの理解者であった新居崎邦宜が癌のために亡くなったのだった。余談だが、彼は医師から癌の告知を受け、自ら癌に冒されていることを周囲に公表した、おそらく初めての患者であった。

 ドキュメンタリー作家・柳田邦男が著した『ガン50人の勇気』『明日に刻む闘い~ガン回廊からの報告~』(ともに文芸春秋)にも、新居崎のエピソードが語られている。

 最大の理解者を失って中島朋夫や下條武男は窮地に立たされた。

 当時のことを、同じ日本能率協会にいながら第三者の目で見ていた男がいる。のち日本EDPを経て「株式会社ビッツ」を設立することになる中西忠男である。

 中西は産業能率大学を卒業し、IE(インダストリー・エンジニアリング)のコンサルタントとなるべく、日本能率協会で研修中だった。製造業の業務分析を行い、生産のプロセスをフローチャート化し、機械化を含む業務改善を指導するのである。そのために電子計算機の知識も必要だったので、下條の講座を何度か受けたことがあった。

 「旧守的な理事たちにとって電子計算機は“わけの分からないもの”だったし、コンサルタントの中には、コンピュータをやるのはわれわれの仕事ではない、という声もあった」

 と中西は言う。

 折から5年前に導入したUNIVAC USSCのリプレースが近づいていた。

 日本IBMは「IBMシステム/360」で大攻勢をかけており、時代の趨勢はUNIVACからIBMに変わりつつあった。情報システムのコンサルティングを行うには、より多くのユーザー企業が使用する電子計算機の採用を検討せざるを得ない。リプレースを含みのうえでレベルアップを求める中島と下條は、「これ以上の投資は無駄ではないか」とする理事会と対決せざるを得なくなっていた。

 こうした内部事情の一方、通産省の主導で国産コンピュータ・メーカー7社が共同出資する「日本ソフトウェア」が設立される運びになった、という情報が入っていた。国の予算を投入して、大型計算機用の基本ソフトを開発するのだという。ソフト専門の会社として、何とかやっていけるのではないか。

 同じときに、日本ビジネスコンサルタントに所属する技術者たちが、独立してソフト専門の会社を設立する計画を進めていたのだが、そのことを2人は知る由もなかった。

 「自分たちの能力というものが、いったい世の中でどのくらい認めてもらえるものなのか、そのことをいつも考えていた」

 という。

     *

 小黒の記憶によると、

 「独立しましょうよ」

 と提案したとき、下條は

 「そやなあ……」

 というような返事をした。

 下條にも「独立」は魅力的な言葉だった。だが、独身の小黒と、4人の家族を抱える下條とでは事情が違った。さらに下條は、

 「やるなら、成功せないかん」

 と考えていた。

 ここで自分たちが失敗すれば、あとに続く人々の道を絶つことになるであろう。

 現今のように、好んでベンチャー企業に投資をする風潮がなかった時代である。いくら「楽天家」を自称する下條でも、独立した後の資金繰りや仕事の確保が必要なことは分かっていた。

 「いいじゃないですか。応援しますよ」

 と最初にいったのは、NHKの吉田潤である。

 「視聴率動向調査システムのプログラムは、まるで名人芸のようでした。実をいうと、日本能率協会からお2人が離れても、何とかシステム変更をサポートしてもらいたかったのです。計算機のリプレースやプログラミング言語の変更、調査方式の変更などが予想されましたから」

 次いで、協会を通じて知り合った高砂熱学工業が、経理システムの開発を発注する約束をした。

 1966年の11月、国電「恵比寿」駅から明治通りに向かう途中の「三陽ビル」に、下條と小黒はいた。

 「間口一間、二坪ほどの洋間一室でした。ここから始まったんです」

 小黒は懐かしそうにいう。

 資本金100万円のうち、社長の下條が30万円を、小黒が10万円を出した。残り60万円のうち40万円は、下條がUSSCの運用を指導したことがきっかけで懇意になった富山計算センター社長の金岡幸二が、さらにビルのオーナーでもあった三陽商会の長沢重信、金岡の友人がそれぞれ10万円を負担した。「日本コンピュータ・ダイナミクス株式会社」が設立されたのは翌1967年3月である。

 純粋にソフト開発のみを行う専門会社では、コンピュータプリケーションズ、日本ソフトウェアに次いで3番目だったが、下條も小黒もそのようなことは眼中になかった。

 独立したものの、下條は

 「仕事は日能を通す」

 ということにした。NHKも高砂熱学工業日本能率協会の名前で獲得したユーザーだったからだ。

 両社からは

 「お2人がいない協会に仕事を出しても仕方がない。日本コンピュータ・ダイナミクスと直接、契約を結びたい」

 と申し入れがあったが、下條の意思は固かった。形式上は協会が仕事を請け、下條たちがその委託でソフトを作ることになった。

 ところが協会はいつまで経ってもUNIVAC USSCをレベルアップせず、産業界の実情から時代遅れになっていく。しかし電子計算機がないことには記述したプログラムをテストすることができない。困っていたとき、救いの手を差し伸べたのは日興証券だった。

 日興証券の電算部に、かつて協会の下條教室で授業を受けた技術者が何人かいた。

 「下條さんが困っている」

 と聞いて会社に働きかけ、空いている時間を有償で貸してもいい、という許可を取ってくれた。

 協会を通じて知り合った人が大きな仕事を紹介してくれたこともあった。ブリヂストン・タイヤで電算部長を務め、青山学院経営学部教授に転身した鵜沢昌和である。のち同学院学長。

 鵜沢がブリヂストンに勤めていたころ、小黒は東芝タイプライタのインストラクターとして出向していて旧知の関係にあった。また下條は協会の講師として鵜沢を招くなど、別の関係を持っていた。1969年の1月、その鵜沢がアラビア石油システム開発を紹介してきたのである。

 当時、アラビア石油は東京の本社にさえ、まだ電子計算機を導入していなかった。その前にサウジアラビアのカフジにある石油採掘・生成工場にIBMシステム/360を導入しようと計画していた。計画によるとその内容は、経理原価計算、固定資産管理など、大規模なシステムだった。

 「明年(1970年)の始めにシステムを稼動させたい」

 と担当者は言った。のち、アラビア石油経理部長となった関岡正裕である。正味の作業時間は10か月しかない。

 鵜沢は、

「そんな離れ業をやってのけるのは、いまの日本には下條と小黒しかいない」

 と、関岡とその上司である部長の森清に強く推薦したのだった。

 「とにかく早く見積もりがほしい」

 という要望だったので、下條と小黒は徹夜で約2000万円の概算見積もりを作って持っていった。

 数日後、関岡から返事の電話が入った。

 「下條さん、この見積もりではダメですね」

 「何とかなりませんか。当社としてはぜひいただきたい仕事なので、精一杯がんばったのですが」

 下條は言った。

 すると電話の向こうの声が意外なことを告げた。

 「誤解なさってはいませんか」

 「は……?」

 「わたしどもは割安にシステムを作りたいとは考えていません。将来にわたって安定した、キチンとしたシステムを作りたいし、これから先のメンテナンスもお願いしたいと考えています。この見積もりは安すぎます」

 関岡がプログラムの作成だけを考えていたなら、おそらくこの言葉は出なかったはずである。コンピュータ・メーカーにデペンドしないこと。独自の発想と独自の力でシステムを設計し、責任をもって仕上げること。関岡はそこに価値を見出していたのに違いない。