下條武男伝(7) 『日本IT書紀』第五分冊迅風篇 巻之廿七《連屬》「展開」から

  東京の恵比寿のマンションで、下條武男と小黒節子の2人でスタートした日本コンピュータ・ダイナミクスは1974年の現在、どうしていただろうか。

 徹夜して作った見積書が

 ――安すぎる。

 という理由で突き返されたアラビア石油の一件から5年、このとき従業員は60人を超え、売上高も順調に増えていた。本社オフィスは1971年に東京都港区青山五丁目の南青山マンションズビルに移転、同時に資本金を1000万円に増資している。小黒節子が取締役に就任したのも同じときだった。

 要員派遣をせず、ユーザー企業と直接契約を結ぶ受託開発一本というのは、ソフトウェア産業振興協会の中でも珍しい――別の意味では目ざわりな――存在になりつつあった。

 そのことは稿を改めて記すとして、ここでは社業に限って話を進めたい。

 「覚悟はしていましたが、暑かった」

 と下條は言う。

 何のことかというと、1969年、下條はアラビアにいた。

 赴いたのはアラビア半島の付け根に近いカフジという町である。

 クウェートの南に広がる中立地帯の沖合いに、海底から油田が湧き出していた。フート沖合油田、カフジ沖合油田の2つがあった。そこから海を越えてパイプラインで陸上に原油を搬送し、カフジの鉱業所で精油にして出荷するのである。

 「摂氏42度というのは、暑いのを通り越して、足元から燃え上がってくる熱さです。そこにIBMシステム/360を導入したわけですが、乾燥し切っていますから磁気テープがバリバリになって使いものにならない。そこで東京でプログラムを紙カード5万枚にインプットして、ジュラルミンのケースに入れて持ち込みました」

 ハードウェアのトラブルや現地技術者の教育などで手間取ったものの、システムの導入は無事終わった。その後もアラビア石油からは、カフジ鉱業所の固定資産管理システム、原価管理システム、東京本社のトータル経理システムなどの発注があり、74年の段階で取り組んでいたのは現地における資産分割にともなうコンピュータ・システムの変更作業だった。

 現地にエンジニアが10人ほど駐在し、下條も年に2回か3回は東京―カフジの間を往復していた。

 そのときの逸話がある。

 「当社の社員やアラビア石油の駐在員のために、行く度に日本から食料品を持っていきました」

 日本人が海外に行くとき、梅干や味付け海苔、粉末の味噌汁などを携帯した時代である。サンフランシスコやロサンゼルスあたりであれば日本人街があったが、なるほどアラビア半島では「日本」の食品が手に入らなかったであろう。

 「入国審査に引っかからなかったですか?」

 「ま、そういうこともありましたけど、そのほかに持って行ったのはマグロのかたまりや牛肉などでした。鰻の蒲焼をパックに詰めて冷凍して持っていったこともありました」

 この話には続きがある。

 下條は現地で、新聞に紹介されるほど有名人になった。日本人自体が珍しかった。

 だけでなく、

 ――コンピュータを魔法のように動かす人。

 という意味で、尊敬の念をもって遇せられた。

 あるときパーティに招待された。

 パーティといっても、われわれが認識しているホテルの立食形式ではない。いわば〔部族の集い〕に近い。メインディッシュは羊の丸焼きだった。大勢の人が火を囲み、肉をむしりながら食べ、唄い、かつ踊る。

 主賓にだけ供される特別な料理があった。

 飾り立てた皿に載ったそれが、下條の前にうやうやしく置かれた。

 「何だか分からんけど、わたしはわりとうまいと思って食べました。あとでその話を知人にすると、よく食べましたね、と目を丸くして驚かれました」

 羊の脳みそと目玉だということが、あとで分かった。

 

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