下條武男伝(9) 『日本IT書紀』第五分冊嚇躍篇 巻之廿九《仙蹕》「展開」から

 下條によると、

 ――清成は観察者、中村は発見者、飯沼は預言者の役割を担った。

 という。

 日本ベンチャービジネス協会が発足して2年が経った1973年ごろのこと、会員企業の中から

 ――会員で基金を集め、銀行から融資を受ける際の信用保証制度を作ってはどうか。

 という声が上がり始めた。

 しかし呼びかけ人の清成や会長の下條らにとって、挑戦者としての志に反することのように思われた。というのは、清成や下條にとって日本ベンチャービジネス協会とは、一種の精神運動の拠りどころであり、その活動はボランティアであるべきだったからだ。

 「実体を伴うようになると、それを利用して自己の利益を計ろうとする好ましからざる動きが出るものです」

 自然の流れとして、この話を役所に持ちかける会員が出た。

 折から通産省は1975年度の施策として、新しい市場創出に結びつく技術開発型企業の育成策に取組んでいたところだった。創業間もない技術開発型企業の立上げ時期には多大な資金が必要になる。そうした企業が市中銀行から融資を受けるに当たって、国が信用保証を行おうというのである。むろん、通産省は資金のめどをつけていた。

 施策の骨子が具体化したのは74年である。新たに財団法人を作るという。

 通産省が日本ベンチャービジネス協会を財団法人として認めれば、すんなり行くはずだった。ところが当時の官僚機構は、主導権を握ることに主眼を置いた。別の言い方をすれば、天下り先ということでもある。

 ――われわれが望んでいた国による信用保証が得られるのだから、いいではないか。

 という会員がいた。

 ――それはいいことだが、われわれ挑戦者の旗はどうなるのか。

 下條は言った。

 これを聞いて、通産省から下條に対して思わぬ圧力がかかった。

 ――代表の座を降りてくれまいか。

  協会の当時の幹事のなかには、そのような官僚の意向に同調することによって、官僚と親しくなりたい、官僚に恩を着せたい、とする者もいたわけです。そのような人たちの声が大きくて、しかし大多数の会員たちは、何が何だか真相が分からない……。

 自らの意思で創業したはずが、事業を発展させるための資金を国に頼ろうとする。

 情けない。

 といってしまえばそれ切りだが、官民癒着のもとで大企業同士の談合や恣意的な指名入札が日常的に行われていた当時を思えば、財団設立に走った新規創業者たちも、それなりに必死であったに違いない。同じような主旨の団体が2つ存在するのでは、大蔵省の認可が得られない。

 ――唯一でなければならない。

 と通産省は告げた。事態は下條を会長から引き降ろすにとどまらず、協会の解散ということに発展した。

 日本ベンチャービジネス協会が「自己解散」を決議したのは1975年4月である。

 下條は再び挫折感を味わった。

 私自身としては、通産省が信用保証団体を作ること自体には賛成でした。そのような新しい団体が従来、ベンチャービジネス協会の望んでいて実現できなかったもろもろの事業を引き継いでくれるというなら、ベンチャービジネス協会の方が発展的解消してもよいだろう、というぐらいには考えていました。

 (中略)

 私としては(日本ベンチャービジネス協会代表幹事の座は)それほどまでして執着しなければならないポストでもなかったので、あっさり交替に同意したわけです。そんなことで「自己解散」の決議の際には、だから私は代表幹事ではなかった。

  日本ベンチャービジネス協会が解散した同年の7月、ここに財団法人・研究開発型企業育成センターが発足した。のちのベンチャーエンタープライズセンタ(VEC)である。発足と同時に国庫補助4億5000万円、日本自転車振興会から10億円、民間から7億円余りの計約22億円の資金が拠出され、翌1976年度に約4億円の信用保証を実施している。

 ところが新たに発足した財団法人は、ベンチャービジネスの何たるかを理解していなかった。資金調達の信用を裏づけするだけでは、企業は育たない。経営者を育て、人材を育て、そのネットワークを作り、情報を交換し合い、ときに協力し、ときに協業することがなければならない。

 飯沼の言葉。

閉塞状況にある日本の社会にあって、われわれこそは控えめに見ても、数少ない可能性の一端を背負っている。その意味において、われわれは楽観主義者の群れである。身に苦悩をにじませながら、われわれは未来の社会を楽観しようとするものである。