矢頭亮一(良一) やず・りょういち/1878~1905

大分県〕卓上型歯車式計算器「パテント・ヤズ・アリスモメートル」を考案した。国産計算器の量産に成功した。

現在の大分県豊前市岩屋に生まれた。父親は岩屋村の村長だった。中学校を退学し、独力で飛行機の研究・開発に取り組んだ。大阪、長崎に出て数学・工学などの基礎学科を学び、1900(明治33)年、22歳のときに飛行機の基本概念「飛翔原理」を完成させた。機体の最前部に取り付けたタービン・エンジンでプロペラを高速に回転させ、その推力をもって翼に浮力を与えるという理論は、1903年に初飛行に成功したライト兄弟の原理とまったく同じだった。

北九州小倉に駐屯する陸軍第十二師団軍医部長として赴任していた森林太郎(鴎外、のち陸軍軍医総監)を訪ね、自身の独創で発明した計算機――矢頭は「自動算盤」と呼んでいた――の模型を示して「これを製品化して販売し、その利益をもって飛行機を作りたい」と訴えた。森は矢頭の天才と再三訪問する熱意に打たれ、その年の10月、「上京し大学で研究せよ」と、この青年に告げた。

「上京せば、わが母に万事を頼るべし」と援助を約束した。この経緯は『小倉日記』に記されている。その援助とは、①東京工科大学(のち東京大工学部)の教授を介して矢頭の研究指導に当てること②特別に研究室を与えること③機械図書などの閲覧の自由を与えること――の3点だった。

森はさらにこの話を、東京の知己に吹聴した。話を聞いた元外務大臣伯爵として元勲に列していた井上馨は、懇意にしていた渋澤栄一などと資金を調達し、また地元の篤志家などの支援を得て、矢頭は東京・雑司ケ谷に組立工場を建設することができた。高橋二郎が論文「人口調査電気機械の発明」を発表したのに続いて、1887(明治20)年には日本生命がイギリスから「テートス計算機」を輸入して保険数理の解明や計算実務に実用化していた。井上馨渋澤栄一は、計算機の国産化に着目した。

1901(明治34)年に発売された自動算盤は、「パテント・ヤズ・アリスモメートル」と命名された。「パテント」と冠したのは、矢頭が計算機構の特許を取得したからである。矢頭本人が残した記録に「計算機は我算盤を知らざる外人の発明したるものなるを以て算盤より勝れる点多きにも拘らず之より不便なる個所も亦少なからざるなり。左れば其使用者は算盤と計算機とを合わせたるが如き速算機械を得んことを切望せしが自動算盤は此の希望を充分満足せしむることを得るものにして曾て外国製計算機を使用せられし所の紳士は続々自動算盤を購入し給へり」とある。

自動算盤は3年間で計二百数十台販売した(223台という説がある)。購入者は陸軍省内務省、日本鉄道農業試験場、統計局など政府機関が中心だった。その利益は5万円に達したという。現在の東京都港区三田にある日本電気本社ビルの敷地と、その上にあった工場を、日本電気の創業者である岩垂邦彦が購入した金額が四万円だったことを考えると、矢頭の成功がいかほどのものだったかが分かる。国産の商用計算器として成功した量産第一号といっていい。

1905(明治38)年、矢頭は計算機で得た利益5万円を元手に東京雑司ヶ谷(現在の豊島区護国寺付近)の工場を改造した。いよいよ念願の飛行機の実験・試作を始めるるのである。工場の改造が終わったのは2年後だったが、その間にも矢頭は飛行機の製作に着手し、工場が完成したころにはおおよその姿ができあがっていた。だが、尾翼を仕上げている途中、高熱を発して倒れた。

彼は病床にあっても飛行機の製作に細々した指示を与えた。だが病の進行が志を挫いた。矢頭はその完成を見ないうち、31歳で早逝した。研究はあとを継ぐものがなく、国産の計算機と飛行機の開発はここで途絶えた。