下條武男伝(1) 『日本IT書紀』第三分冊揺籃篇 巻之十五《氣噴》「日本能率協会」から

 「試験を受けたのは吉澤会計機、入社したのは日本レミントン・ユニバックだった」

 と話すのは下條武男である。佐藤雄二朗(日本ユニバックから独立しアルゴ21を創業、情報サービス産業協会会長となった)と同期だが、一方は東京出身で営業部に配属、下條は大阪出身で技術部だったので、行き違いのまま終わった。

下條は1958年(昭和33)の春、大阪大学理学部数学科を卒業した。中学校で1年、大学の受験に失敗して1年浪人し、さらに大学で2年留年した。その理由を下條は、他人事のようにこう語る。

 「数学だけはでけた子やったけれど、他の学科があかんかった」

 ちなみに下條は大阪・天王寺に生まれ育った。

 生家は「富士屋商店」という製菓会社で、30人以上の従業員と数人の女中を雇うそこそこの規模だった。のちに暖簾分けした「富士屋製菓」が、現在も名古屋で続いている。

 本題と関係はないが、下條は大学2年目を終えた春休みに、アルバイトの家庭教師先で見初めた女性を1年がかりで口説き落とし、学生結婚を果たしている。普通より4年遅れての大学卒業、さらに学生結婚のうえ卒業の年の1月に第1子誕生というのは、戦後10年を経ていたとはいえ、

 「ま、ユニークですわな」

 と当人も苦笑する。

     *

 下條へのインタビューと、彼の著作『ゆにいく~わが半生~』(帝国出版リンデン、2001、非売品)および、『道・NCD35年の歩み』(下條武男・小黒節子編著、2002、非売品)からの抜き書きを織り交ぜて、当時の日本レミントン・ユニバックの状況を記す。

 「入社当時、日本レミントン・ユニバックの社員は250人ほど、新入社員は15人か16人で、その半分がソフト部隊に配属されました」

 採用は大阪支店だったが、ソフト部隊に配属された下條は研修のため上京し、そのまま東京で勤務することになった。

 「とにかく、読め」

 と言って、ドン、とテキストを渡された。社員の教育制度など、整っているはずがなかった。だから、教えてくれると言っても、先輩社員が仕事の暇を見てやってくれる程度。あとは自習自得しかない。唯一の手段は、会社が与えてくれたテキストだけである。

  そのテキストは表紙の色から「ブルーブック」と呼ばれ、下條が苦手だった英語で記述されていた。内容が小説や随筆であれば、辞書を引きながらでも前後の関係からおおよその意味が理解できる。しかしブルーブックは技術書であり、そもそもチンプンカンプンのコンピューターのマニュアルなのである。そこで彼は先輩社員が教えてくれたことを手がかりに、他の部分に理論を当てはめ、図表を参照しながら電子計算機の構造やプログラムの原理を理解していった。

 「英語の文章をいちいち翻訳するより、理論で理解した方が早いし正確だった」

 という。

 ところが理論を覚えても、それだけでは役に立たない。 

 電子計算機自体が、会社にない。そこで、電子計算機を納品したお客様のところに、先輩社員が「見学」と称して連れて行ってくれる。行った先は東京ガス

 「すみません、新人が入ったもので、ちょっと電子計算機を拝見させて戴きます」

 と言って見せてもらった。お客様の方も承知していて、特に嫌な顔はされなかった。

  大卒公務員の初任給が1万200円、大工の日当が1日1000円の当時、電子計算機は1台50万ドル以上だった。単純に1ドル=360円で換算すると1億8千万円だが、感覚的には現在の10億円以上に相当する。

 「そういう滅茶苦茶に高価な機械でしたから、ユーザーも自慢だったのかもしれません。しかしそういう奇特なユーザーがいたので、わたしたちソフト技術者が育ったのです」

 これはUNIVAC機のユーザーに限ったことではなかった。IBM、FACOM、HITAC、NEACといったマシンのユーザーは、電子計算機を見せるだけでなく、空き時間を実務に使わせもした。

 繰り返しになるが、下條は陸軍幼年学校を志望して1年をふいにし、東大を目指して失敗した。加えて大学で2年の留年となれば、それなりの屈折があって不思議はない。だが、持ち前の楽天主義で挫折を回避したこの青年は、日本レミントン・ユニバックのソフト部隊で頭角を現わす。

 彼がソフト技術者として歩み始めた1958年には、日本IBMが東京・二番町の本社にIBM650を設置した「東京計算センター」を、富士通信機製造(実際は有隣電機精機)が東京・日比谷にFACOM128Bを設置した「FACOM128Bセンター」をそれぞれ開設し、次いで11月に伊藤忠商事系列の「東京電子計算センター」が設立されている。

 プログラマーとして認知された専門技術者として有隣電機精機に岡本彬がおり、富士通信機に中村洋四郎、金光良衛、酒井嗣行、三田耕治がおり、日本レミントン・ユニバックには多田誠澄、冨田和夫、米口肇などがいた。

 さらにGHQ(連合軍総司令部)や駐留アメリカ軍基地の情報処理部隊で技術を習得した「北川学校」の出身者も、ビジネス・オートメーションのブームに乗ってパンチカード・システムを導入した企業や団体で活躍していた。その意味でいうと、下條は取り立てて新しい存在ではなかった。ところが彼はただの技術者ではなかった。

 「わたしは覚えるのが苦手ですけれど、考えることは好きでね。その点、プログラムというのは、理論的に組み立てて、答えが出るでしょう。自分で考えた理論に沿って結果が出る。自分にはもってこいの仕事でした」

 と下條はいう。

 1959年、下條は山一証券システム開発チームに配属された。山一証券は1955年にスペリーランド社の会計機を導入していたが、この年、磁気ドラムを装備したトランジスター式電子計算機「UFC(UNIVACファイル・コンピューター)」にレベルアップしたばかりだった。

UFCはプログラミング言語で記述したコードをカードにパンチして読み取らせ、内蔵メモリーに蓄える新しい方式だった。このため下條は、プログラミング言語の法則(文法)と、頻繁に使用するコードを覚えなければならなくなった。

 ところがこの難問も下條はクリアすることができた。

 「よく使うコードは手引書を参照すればいい。そう考えたら楽になりました。そしてより重要なのは、どのようなプログラムを作ればいいか、ロジックの組み立てだということに気がついたわけです」

 他の技術者が一本のプログラムを完成させるのに、たとえば4週間かかるとする。ユーザーの業務を調べたり要望を理解するのに1週間、プログラムを組む(コーディングする)のに1週間、マシンにかけて実際に動かし、不具合を調整するのに2週間というのがおおよその配分である。

 下條の場合は、ユーザーの業務や要望を理解するのに他の人の1.5倍、1週間半をかけた。またプログラムを組むのに1週間半かかる。周りから見ると、ひどく遅れているように思えるのだが、修正がほとんどなかった。論理的な矛盾やコーディングのミスが皆無だった。初期の設計さえ正確であれば、3週間で仕上げることができる。

 「プログラマーとしてより、システム設計の方が向いている、という自信が出てきました」

 という。

 入社して2年目に割り当てられたのは、山一証券システム開発ばかりではなかった。

 「そのかたわら英語のマニュアルを日本語に翻訳した」

 というから、「外国語は大の苦手」というほどではなかったのであろう。「性分に合わない」というべきなのかもしれない。

 この作業は下條にとっては苦行だったが、当時の最新のソフト技術を習得するいいチャンスになった。

 もう一つは後輩の教育だった。

 「1年後輩といっても、歳は5歳も6歳も離れている。髪の毛の具合からいっても、彼らから見たら、たいへんなベテランに見えたのと違いますかな」

 当時の写真を見ると、たしかにやや額が広い。下條は若はげの風貌と年齢の差を強調するが、実はたいへんな教え上手だった。このことが、入社4年目、30歳のときに転機をもたらした。

 社団法人・日本能率協会から誘いの声がかかったのである。