下條武男伝(4) 『日本IT書紀』第三分冊彩明篇 巻之十六《浮寳》「初の女性SE」から

 日本能率協会の職員だった下條武男が、日本人として初の女性のシステム・エンジニアを育てたことはあまり知られていない。下條はそのことを語らないし、当人もそのことを自慢しないためだ。

 小黒節子は下條の6歳年少である。

 “お嬢さん学校”として知られた山脇学園を卒業し、野村証券に入った。

 「初任給は9800円で、高卒の事務員としてはたいへんに高かった。高校を卒業したら何年かお勤めをして、20歳を過ぎたら結婚する。そんな雰囲気の時代でした」

 と小黒はいう。

 野村証券で3年勤め、1959年に東京芝浦電気の子会社である東芝タイプライタに移籍した。東芝タイプライタは紙テープ穿孔機を製造・販売していた。伝票の記号や数字をタイプライターのキーボードで打ち込む。同時に、データが穿孔された紙テープになって出てくるという装置である。ここで小黒は、この装置のインストラクターとして働くようになった。得意先の一つが日本能率協会だった。

 同協会の新居崎は、EDP研究所に最新鋭のコンピュータ「USSC」を導入し、日本レミントン・ユニバックから下條をスカウトしたが、USSCを動かすにはプログラマーが欠かせなかった。そこで小黒に白羽の矢を立てた。優秀なインストラクターだったのであろう。

 「私はコンピュータについては、まったく何も知らずに入ってきた者なので、まずプログラマーとしての勉強をやりました。周りに10人ばかり同じような教育を受ける人たちがいましたが、だいたい皆さんできる人たちです。女性は3人ぐらいだった」

日本コンピュータ・ダイナミクスが創立35周年を記念して出版した『道・NCD35年の歩み』に小黒はこう記している。

 

 この当時、プログラマーというのは、多くの女性にとって憧れの職業でした。ただし、それは大学の理数系を卒業した女性に限られた職業で、私のような高校卒の者はとてもなれないものと、自分では思っていたものです。たまたま、この「EDP研究所」に誘われた。ここにくるとそんなプログラマーの仕事がやれるということになって、それは一生懸命になったものです。

   (中略)

 イチから手ほどきしてもらえるような教育ではなかった。いきなりマニュアル(和文)を渡されて、まったくゼロから勉強した。分からないところは、周囲の人に尋ね、尋ねて……。

そんなとき、いちばん頼りになったのが下條さんだった。彼に聞くと非常にていねいに、よく教えてくれた。そんな印象が残っています。

 彼は確かに技術屋ではありましたが、非常に視野の広い人だった。そしておおらかな技術屋でした。難しいことを、むずかしく説明する人ではなくて、難しいことでも、きちっと分かりやすく説明してしまう人。ものの原理をきちっと理解している人——という印象でした。

  彼女にとって最初の大きな仕事は、日本放送協会(NHK)の視聴率調査だった。NHK放送世論調査所の所員だった吉田潤によると、システム開発が始まったのは1962年のことだった。

 吉田はいう。 

 

当時、私どもには専用のコンピュータがなく、また、プログラムを作成するのに十分なスタッフもおらず、日本能率協会に委託した。

 両者が共通の目標としたのは、そのつど限りのバッチ処理ではなく、長期使用に耐える集計システムでしたが、それには数多くの困難がひそんでいました。まず最初は、委託内容が、事務計算とも科学計算とも違う、特殊な複雑さを持っていたこと、依頼する私どもが、コンピュータのハード・ソフト両面にわたって素人に近く、プログラミングの約束事を十分に理解していなかったことでした。両者の意見が完全に通じるまでにはかなり時間がかかりました。

 また、今から見れば容量も小さくスピードも遅いマシンを使って、大量、複雑な集計内容をいかにスマートに処理するかが、大きな課題でした。

  この大仕事で下條は、メインプログラムの作成を小黒に割り当てた。プログラマーとして勉強を始めて1年たったばかりの新人には、荷が重かった。

 下條はいう。

 「彼女はプログラマーとしてたいへんに見込みがあった。だから無理を承知でメインプログラムに挑戦させた。結果として、大正解だった」

 再び小黒の回想に戻る。

  ほかの方たちのプログラムはどんどん出来上がってゆくのに、私の部分だけがどうしてもうまくゆかない。「これはどうしても自分にはできない」という気持ちに落ち込んでしまって下條のところへ持って行った。このときはもう辞めるつもりでした。

  仕方なく、そのプログラムは下條がつくってしまった。

 彼女は雑用係になった。

 鉛筆――当時はコーディング用紙と鉛筆でプログラムを記述した――を削ったり、資料を整理したり、机の上を片付けたりしているうち、他のプログラマーの雑談や議論を聞いていると、なぜ自分がうまくできなかったのか、その原因が分かってきた。

 

 自分は落伍者だ、と思ってから二か月ほどして、私は下條に

 「もう一度やらせてください」

 と申し出たのです。私にとってこれが最初の壁であったし、最初の転機でした。

 

このエピソードは小黒が優れた人材だったことを端的に示している。自分とは何か、を自ら発見できるのは、一つの才能であるに違いない。