下條武男伝(8) 『日本IT書紀』第五分冊嚇躍篇 巻之廿九《仙蹕》「展開」から

 日本EDP、構造計画研究所、コンピュータプリケーションズ、日本ソフトウェアの4社でソフト業団体結成の構想が練られていたときから業界団体の必要性を感じ、日本コンピュータ・システムの舟渡善作を説き、日本タイムシェアの伊藤正之と会い、ソフトウェア・リサーチ・アソシエイツの丸森隆吾を誘った。

 でありながら当の本人は、協会の運営にかかわることをしなかった。経営者であるかもしれないが政治はやらない、と宣言したに等しい。純粋な思想を貫こうとした、ともいえる。あるいはプログラムを作り、システムを設計することのほうが面白かった。

 ――下條さんの仕事ぶりは、楽しくてしかたがないという感じだった。

 と日本タイムシェアを創業した伊藤正之が話している。下條が日興証券のコンピュータを借りてプログラム作りを行っていたとき、伊藤は日興証券電算部の課長代理という立場にあった。

 1972年、下條はある任意団体の代表に就任した。それはソフト開発や受託計算サービスのいずれでもなく、しかし当時の新興企業に共通する課題について意見を交換する場だった。その名を「日本ベンチャービジネス協会」という。

 この協会の呼びかけ人は、当時、国民金融公庫調査課長だった清成忠男専修大学教授だった中村秀一郎である。1969年のこと、国民金融公庫は新しい融資先として、1965年以後に設立された中小企業について起業の動機や設立の経緯、経営者の経歴などを調査した。

 それに基づいて清成は雑誌「経済評論」1970年3月号に「零細企業増は逆行現象か」という論文を載せ、中村は「中堅企業論」を書いた。

 清成は言う。

 「この調査の結果に基づいて、われわれはベンチャー・ビジネス論を提起した。古来型の中小企業とは異なる、知識集約的な独立企業群が当時登場しつつあった。したがって、ベンチャー・ビジネスは和製英語であり、アメリカの概念を導入したわけではなかった」

 この2人と意気投合したのが朝日新聞の記者だった飯沼和正である。

 飯沼は経済部の記者として

 ――新しい産業社会では、小さな独立した研究開発型企業群が数多く輩出され、そうした小企業が相互に補完し合うネットワーク構造が形成される。

 と論じていた。彼は『ベンチャー・ビジネスの理念』(日本ベンチャービジネス協会記録・1974・9・30)で次のように書いた。

 ベンチャー・ビジネス(以下VBという)とは、何か。われわれは、次のように考えている。

 VBとは、社会の要求を充たすために、ある種の危険と困難を引き受けようとする革新的企業を指す。また現代においては、革新的な仕事は、知的な経営活動によって支えられる。

 したがって、VBは、知識集約的な革新的企業だといえる。

 ここでいう革新(イノベーション)は、狭義の技術革新に限らず経営のすべての局面における何らかの創造を含み、そうした創造を他に先がけてビジネスとして展開することをいう。

このような革新は、本来、個人責任を原則とすべきものである。したがって、VBとは、ある仕事を企業化するに際して、その責任を個人において受け止める覚悟を有し、かつその責任を果たしてきた一人の個人、あるいは、数人も個人によってささえられてきた企業を指している。われわれは、このような企業の責任を覚悟しようとする個人を「企業家」と呼ぶことにする。

 (中略)

 しかし、「企業として軌道に乗せる」とは必ずしも急激な膨張あるいは量的拡大を意味してはいない。企業の構成員の質的成長、企業をとりまく社会に対する貢献と責任などを含めて、健全な成長の段階に到達することを「企業として軌道に乗せる」という表現の内容としている。しかしながら、長期的に収支あい償わぬ状況にある企業は、その業務がいかに革新的であろうと、「企業として軌道に乗せる」とはいいがたい。

  彼らは調査の対象になった企業の経営者に勉強会を呼びかけた。最初の会合が開かれたのは1970年の暮、会場は東京・六本木の国民金融公庫六本木寮だった。金沢磐夫(サム電子機械)、中戸将治(ジュビリ)、河本琢也(コモタ技研)、小平均(東京電子応用研究所)、前沢和夫(日本デジタル研究所)といったベンチャーの創業者が名を連ねた。

 日本コンピュータ・ダイナミクスは調査対象の1社だったが、どういうわけか下條には声がかからなかった。ソフトウェアの価値が十分に理解されていなかったためであろう。

 声がかかったのは1971年の春である。

 下條は『道・NCD35年の歩み』でこう述懐している。

 私はこの会合に出て、非常に励まされた。非常にうれしかった。非常に勇気づけられた。

 われわれは、自分ではそれぞれ、何とか生き抜いていける自信はもっていた。しかし、私たちのような小さな企業が、社会全体のなかで、どう位置づけられるのかについては、ほとんど意識していなかった。むしろ従来からの大企業→中企業→零細企業という序列構造のなかで、自らを位置づけようとしていたかもしれない。そのような意識に対して、新しい見方を教えられた。

  1972年にこの会合が「日本ベンチャービジネス協会」と名乗るようになったとき、下條は代表幹事に選ばれた。会を取りまとめる座長のようなものだった。

 下條はソフトウェア産業振興協会の設立発起人の1人だったが、

 「実は、その後のソフト協に嫌気がさしていたんです」

 という。

 「新しい団体の立場をたくみに利用して官僚や政治家にとり入ろう、近づきになろうとする人たちが出てきた」

 この温厚な人物をして嫌気を覚えさせたからには、発足直後のソフト協幹部のなかに相当に露骨な行動をとる人がいたのに違いない。それよりはむしろ、挑戦者の旗を掲げ続ける志において、下條は業種は違っても、日本ベンチャービジネス協会の仲間に親近感を覚えていった。

 その志とは、飯沼が起草した「ベンチャービジネス憲章」に端的に示されている。

  日本ベンチャービジネス協会とは、先に明記した企業家を中心とした集団である。個人としての企業家を中心に、このような企業家を志す人々、企業家を論理的に精神的に、あるいは経済的に支持しようとする人々から構成される集団である。

 (中略)

 この協会の役割は、協会の内部に対する役割と協会の外部に向けての役割の二つから成る。

 協会の内部の構成員に対しては、教育、情報提供、事業にかかわる便宜供与、相互扶助などを推進する。前者は、協会の構成員に対して、ベンチャービジネスの本質にかかわる問題だから、新たに創設された企業がいかにすれば軌道に乗り、質的に成長しうるかといった企業運営にいたる問題までを対象として含んでいる。

 また、ベンチャービジネスが中小規模であることからこうむるかもしれない社会的不利益を排除するための相互扶助の仕事も、協会の担う任務である。

 協会の外部に対しては、ベンチャービジネスの本質と社会的意義を、明確に主張していかなければならない。産業社会の革新に際して、独立の気迫に満ちた企業家精神がいかに重要であるか。この点についての社会的認識は、これまでの日本にはかなり弱かったといってよい。われわれは、協会を通じて、これらの主張を打ち出し、共鳴者と共働者の参加を求めるものである。

 (注)これは、単なる経営者の親睦団体ではない。また、労働者団体に相対する経営者団体でもない。あるいは、単に経営者相互の利益をはかる団体ではない。すでに明らかにしたようなベンチャービジネスの社会的意義、企業家たちの主張を、社会的に実現していくための「運動体」である。